ハンガリー人民共和国
第二次世界大戦ではハンガリーは枢軸国側で参戦したが、ソ連に全土を占領されて敗戦した。以降、ソ連の影響下に置かれることとなる。1956年に反ソ暴動となるハンガリー動乱が勃発した。この動きもソ連及びワルシャワ条約機構軍の介入により圧殺された。体制は元に戻されたが、経済は比較的自由であった。1968年頃から西側の経済を緩やかにではあるが取り入れ、単なるソ連政府の傀儡ではなかった。1980年代には、国民はハンガリー社会主義労働者党の保守派、改革派のどちらかを選択出来る様になり、衛星国という概念は薄れていった。ポーランドの変革に刺激を受けるような形で改革派が実権を握り、ハンガリーは独自に民主化(西欧への帰還)への道を歩んでいったのである。
ポーランドでは長年ロシア・ソ連との対立や抵抗が続き、第二次世界大戦でもロンドンの亡命政府や国内軍によるドイツへの組織的抵抗がソ連の支援を受けた共産党系の運動よりも活発だった。そのため、人民共和国成立後も国民の反ソ感情は強く、1956年、1970年、1980年と反ソ暴動、国内改革運動が活発になった。
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ただしチェコスロバキアやハンガリーとは異なり、ポーランド統一労働者党の政府や、1980年の戒厳令で国家統治を党から事実上肩代わりしたヤルゼルスキなどのポーランド国軍は、混乱の自力収拾に成功してソ連やワルシャワ条約機構軍による介入を巧みにかわし、外交面ではソ連の要求へ忠実に応える一方で、国内の改革運動の要求をある程度受け入れることに努めた。この結果ポーランドではベルリンの壁崩壊以前に「東欧」では先陣を切って複数政党制による自由選挙を実施する事につながって来る。