2009年06月15日

ホンタク(ホンオフェ+マッコリ)は葬式などの人が

ホンタク(ホンオフェ+マッコリ)は葬式などの人が集まる祭事で振舞われることが多い。このため、ホンオフェの発酵を促進するため、堆肥を利用する仕込みが考案された。伝統的な方法では、エイの切り身を入れた瓶を堆肥(ホンタク用は主に松葉や米糠を使う)の上に置き、堆肥の発酵熱によりエイの醗酵を進ませる。マッコリの瓶も堆肥で暖めて同時に発酵を促進させることもできたので、一石二鳥であった。
星と光たち
オリンピックの驚き
海のお話
ウサギの秘密
めの付く言葉
音楽歴史
まの付く言葉
バレンタインデー
たばこ禁煙
酒に飲まれて
皮膚科学
為替
アーチェリー
ボイスドラマ
九州
カポエラ
ビオトープ
縄跳び
包装
ソフトボール

ホンオの特産地フクサンド(黒山島)の販売業者は、発酵のさせ方を以下のように説明している[5]。

瓶の底に4個程度の石を平たく敷く。
石の上にワラや松葉を3cm 程度敷く。
ガンギエイ表面のつるつるした液体がたまった「コブ」を残した状態で切り、そのエイの切り身を密着させずにまばらに散らして置く(黒山島産ガンギエイの皮にある「コブ」には発酵バクテリアが多く、これを残すことで独特の味付けになる)。
ワラや松葉をかぶせるように 3cm 程度敷き、エイの層とワラや松葉の層を交互に積み重ねる。
瓶口にビニールをかぶせ、輪ゴムでしっかり密閉する。
暖かい日は日陰で2?3日位、寒い時は7日程度発酵させる(気温や日照具合によって調節する)。
毎日定期的に匂いを確認し、適度に漬かった段階で取り出す。冷蔵庫で保管することで長期保存が可能になる。

2009年05月30日

権勢と薩摩藩政への影響

この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基となった。一方、実母である市田氏はその権勢により弟の市田盛常を薩摩藩一所持格(本来島津一族でないとなれない地位)に取り立て、同じ重豪側室で島津斉宣の母である公家の娘・堤氏(お千万の方)を江戸から鹿児島に追いだし、自らは重豪の正室同様に振る舞ったのである。このような市田一族による薩摩藩政の私物化は後の近思録崩れの原因の一つとなった。

寛政8年(1796年)には家斉の五男・敦之助を産む。御台所が男子を出生するのは2代将軍・徳川秀忠正室お江与の方以来であった。但し、その3年前に側室が産んだ敏次郎(後の家慶)が将軍家世子と定められていたため、敦之助は御三卿の一つ・清水徳川家の養子となった。この慶事により茂姫、及び島津重豪の威勢はますます盛んになった。が、敦之助はわずか3年後の寛政11年(1799年)に亡くなってしまう。また、寛政10年(1798年)にも懐妊するが流産してしまっている。

このころには、驕慢な振る舞いの多い茂姫を家斉は厭うようになり、茂姫は大勢いる側室たちに寵愛を奪われ、その後2度と家斉の子供を産むことはなかった。

異母弟で9代藩主の島津斉宣が隠居後、財政難を理由に幾度も幕府に要請した薩摩帰国が却下されたのは、広大院の意図によるものとされるが、その理由は享和元年の母・お登勢の方(市田氏)死後に斉宣が市田一族を薩摩藩政から排除したことに対して広大院が激怒したことにあるといわれ、御台所の権威を背景に、薩摩藩政にも大きな影響力を及ぼした。

天保3年(1833年)には、市田義宜(甥で薩摩藩家老)を通じて藩主・斉興(広大院から見れば義宜と同じく甥にあたる)に、嫡子・斉彬の養子として夫・家斉の嫡男である家慶の子・初之丞を入れるよう持ちかけたが、義宜と斉興は広大院に丁寧に断りをいれている。
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天保8年(1837年)、夫・家斉が隠退して大御所となって西の丸に移ると茂姫も西の丸に移り、「大御台様」と称せられるようになる。

天保12年(1841年)、夫・家斉の死去に伴い落飾して「広大院」を名乗る。翌年従一位の官位を授かり、以後「一位様」と呼ばれるようになる。

広大院は夫の死去後、西の丸大奥から本丸大奥に移り、一の御殿・新座敷(将軍生母の居室)を「松の御殿」と改称して住むようになる。

晩年には、家斉側室の一人・お美代の方が家斉の娘・溶姫(母はお美代の方)を生母とする前田慶寧を次期将軍に擁立しようと企む陰謀を阻止するが、これが最後の御台所らしい行動であった。広大院はお美代の方をよく思っておらず、この企みを防止した後に、家斉死去における落飾を許さず、お美代の方を大奥から追放、以後、お美代の方は娘たちの婚家(加賀前田家、広島浅野家)を転々とした。

天保12年(1842年)に12代将軍・徳川家慶付き上臈・姉小路が食する天ぷら調理が原因で火事を起こし、本丸を全焼させてしまう。この火事で広大院は御末の奥女中におぶわれて吹上御殿に避難した。この火事は奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。[3]

1844年に大奥にて死去。法名「広大院殿超誉妙貞仁大姉」。墓所は増上寺。夫の家斉とは別の寺に葬られた。

2009年04月26日

全インド中に同様の

塩の行進は全インド中に同様の非暴力不服従運動を及ぼした。塩の専売制度を巡る非暴力の「戦い」は4月13日まで続いた。同時に英国製の服や商品の不買運動がおきた。インドの海岸のいたるところで塩が「非合法的に」販売された。ガンディーが作った最初の塩は1600ルピー(当時の750ドルに相当)で売られた。塩の行進の反応の中で英国政府は4月末までに6千人以上の人々を投獄した。

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ペシャーワルではサッティヤーグラハはガンディーの弟子でイスラム教徒パシュトゥーン人、カーン・アブドゥル・ガッファール・カーン(Khan Abdul Ghaffar Khan)によって繰り広げられた。彼はクダーイー・キドマトガル(Khudai Khidmatgar)と呼ばれる非暴力運動家の兵士を訓練した。1930年4月23日ガッファール・カーンは逮捕された。クダーイー・キドマトガルの群衆がペシャーワルの市場に集まった。英国政府は武装していない彼等や他の群衆に発砲した(イギリスの連隊の一つは彼等に発砲することを拒絶した)。複数の記事によると、群衆は非暴力の運動に教化され行動していた。前列の人々が倒れたらば後列の人々が前進し銃火に晒された。この衝突は朝11時から夕方5時まで続いた。

1930年5月4日の夜、ガンディーがダンディー海岸の近くの村のマンゴーの木の下にある簡易ベッドの上で眠っていた夜半過ぎにスーラトの警察判事(the District Magistrate)が2人のインド人と30人の重装備した警官を同伴し彼を法違反で逮捕した。

塩の行進は植民地国家の地着民衆が動いたことで植民地政策を行っている国家の関心事となった。ガンディーは刑務所から釈放された後もインドの独立へ向けて働き続け1947年、インドは独立した。ダンディーはインド独立の一つの転換点となった要素は否めない。だが彼についての経済的な評価は揺れている。

2005年における行進
75周年の記念日に塩の行進を記念して、マハトマ・ガンディー財団は塩の行進を再現しようと提案した。そのイベントは「平和、正義と自由の為の国際的行進("International Walk for Peace, Justice and Freedom")」として知られる。マハトマ・ガンディーの曾孫のトゥシャール・ガンディー(Tushar Gandhi)と数百の人々はダンディまで同じルートでほぼ同じ時間掛けて歩こうとした。2005年の3月12日にアフマダーバードでの出発の日、ソニア・ガンディーやNAC(National Advisory Council)議長、インドの内閣のほぼ半分が出席し、彼等の多くは最初の数キロを歩いた。4月5日夜に参加者はダンディー海岸に到着し7日、記念は終わった。

2009年04月10日

ロマ音楽

ロマ音楽(-おんがく)では、西アジアやヨーロッパなどで移動型の生活を送る、あるいは送っていたロマ民族(ジプシー)を中心に発達してきた音楽について述べる。

ロマは北インドに起源を持つ移動型の民族であり、中近東、北アフリカ、ヨーロッパなどで生活している。ロマは西暦1000年以前には北インド、ラジャスタンを離れ、放浪生活に入っていったと考えられている。一方、現在もラジャスタンで演奏家や旅芸人として生活しているロマもいる。

ロマは各地を放浪し、音楽の演奏やダンスなどを行う旅芸人として生計を立ててきた。彼らによってもたらされた音楽は、現地の音楽に影響を与え、また影響を受け、相互に発展してきた歴史がある。ロマは北インドをたった後、イラン、イラク、アルメニア、その他中近東に現れるようになった。西暦1050年頃には既に、コンスタンティノポリスで音楽の演奏をしていたと考えられている。15世紀ごろにはエジプト、スーダン、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ギリシャ、クロアチア、マケドニア、セルビアなどへと居住地を拡大、やがてヨーロッパ全域へと広がっていった。スペインのフラメンコの原型もロマの音楽とダンスであったと考えられるなど、彼らは放浪先の中近東やヨーロッパ各地の音楽文化に強い影響を与えてきた。

ロマの音楽の大きな特徴として、テンポや強弱の激しい変化や交替、細やかなリズムや奔放な修飾[1]、ソウルフルなヴォーカル、そして音高をすべるように移動するグリッサンドの多用などが挙げられる。音階の上では、和声的短音階の第4音を半音高くして二つの増二度音程を持つ独特の音階(ハンガリー音階などと呼ばれる)が用いられることが多いのも特徴である[1]。

各地のロマ音楽 [編集]

インド [編集]
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
インド北部のラジャスタン地方はロマの故地であり、現在でもロマが音楽やジャグリングなどのショーをする旅芸人として住んでいる。

トルコ [編集]
トルコは西暦1000年ごろからロマが住んでおり、さまざまな音楽が生み出されてきた。こんにち、トルコのロマの音楽はベリーダンスの音楽としてよく知られている。

ファスル(Fasıl)は軽快な伝統音楽で、主にクラリネット、バイオリン、ダラブッカ、ツィター(qanún)などが使用される。

チフテテリは、激しいベリーダンスと比べて、よりスローテンポでゆったりとしたダンスである。古代アナトリア半島に起源を持つといわれているが、その発展には多くのロマが関わっている。

ベリーダンスやファスルのショーはレストランやナイトクラブで披露される。

マケドニア [編集]

チョチェクは、ブルガリアではキュチェクと呼ばれ、サクソフォンやクラリネット、そして第一次世界大戦以降盛んになったブラスバンド形式の演奏、およびダンスである。チョチェクの音楽は9/8拍子を大きな特徴とする躍動感のあるもので、マケドニア共和国からは多くの世界的に有名な奏者を輩出している。代表的な音楽家には、女性歌手のエスマ、ブラス・バンドコチャニ・オーケスターがいる。

アルバニア [編集]
アルバニアでは、ロマの音楽と現地の音楽がむすびつき、タラバと呼ばれるジャンルを形成している。タラバは中東の影響を濃く受けついた特徴的な音楽で、ドラムス、そしてダフが使用される。タラバはロマのみならず非ロマ系のミュージシャンも多く、アルバニアでは人気のある音楽となっている。

セルビア [編集]
セルビアのロマは主に南セルビアに多く住み、オスマン帝国の軍楽隊の音楽に由来する、ブラスバンド形式の音楽で知られている。主な奏者としてBoban Markovićが知られている。( [1][2][3] "Kecarac kolo" "Sunen romalen, sunen cavalen")

ギリシャ [編集]
ギリシャはオスマン帝国支配下でトルコと共通の文化圏に属しており、ギリシャのロマの音楽にはトルコからの影響の要素が強い。希土戦争の影響でアナトリア半島のイズミルからギリシャ本土に移ったギリシャ人によってもたらされたチフテテリなどが有名。

ルーマニアのロマ音楽奏者はラウタリと呼ばれ、そのバンドはタラーフ(taraf)と呼ばれる。タラーフの主な構成はフィドル、ツィンバロム、アコーディオン、コントラバスなどからなる。Taraf de Haidouks、ファンファーレ・チョカルリア (Fanfare Ciocărlia)などのバンドは国際的に知名度がある。

マネーレはロマ音楽の影響を受けた現代の音楽としてルーマニアはじめバルカン半島で盛んになっているジャンルである。

著名なロマのミュージシャンには、次のような人物がいる。

Romica Puceanu 女性歌手
Nicolae Guţă 男性歌手
Sandu Ciorba 男性歌手。ほとんどの楽曲をロマ語で歌う。

多くのロマ人口を抱えるブルガリアでは、ロマの音楽は大変盛んであり、パーティーや結婚式などでたびたび演奏される。ロマの演奏するキュチェクは、チャルガの起源としても知られている。

ロマの音楽の影響力は特にハンガリーにおいて顕著であり、人口の上では多数派であるマジャル人を差し置いて、ロマの音楽がハンガリーの代表的な音楽と見做されるに至っている。ヨーロッパでは“ハンガリーの音楽”という言葉がロマの音楽と混同して用いられる傾向さえある(リストの「ハンガリー狂詩曲」やブラームスの「ハンガリー舞曲」などはそうした例である)。特にチャールダーシュと呼ばれる舞曲がハンガリーのロマを代表する音楽として親しまれている。

しかし近年、音楽家の登録にクラシックの試験が課せられるようになってからロマ音楽家は減っており、ロマ音楽が必要なイベント(結婚式など)では隣国のルーマニアからミュージシャンを招いてまかなっているという側面がある。バイオリニストの ロビー・ラカトシュ、ヤーノシュ・ビハリなどの奏者が知られている。

ロシア [編集]
ロシアの音楽においてもロマは重要な役割を果たしてきた。ロマがロシアに移住するようになったのは15〜16世紀頃といわれている。エカチェリーナ2世の時代に大きく発達し、彼らの楽団は町のレストランなどにも出演するようになった。19世紀にはより洗練されたものに進化し、モスクワやペテルブルクで持て囃されるアンサンブルも出現した。七弦ギターやフィドルの伴奏にのせて野太い声でソウルフルに歌うスタイルを特徴とする。ロシア革命までは大きく栄えたが1930年代になるとソヴィエト政府の方針によりロマの音楽は排斥されるようになった[2]。

Jean GoulescoやPyotr Leshchenkoなどの奏者が知られている。

スペイン [編集]
スペインのロマ音楽は、その人気が一般化したフラメンコ音楽によって広く世界的にしられている。フラメンコはスペイン南部のアンダルシア地方で生まれ、ロマの文化と関連づけられてとても良く知られている。スペインのロマはヒタノ(Gitanos)と呼ばれ、多くの有名なフラメンコ・アーティストを生み出してきた。しかし、実際にはフラメンコは純粋なロマの音楽というよりは、アンダルシア地方の土着音楽に由来するところが大きい。もっとも、その発展には多くのロマのアーティストたちが関わってきてはいる。

フランス [編集]
フランスのロマは、スペイン由来のグループ(ルンバ・ヒターナ rumba gitana) と、マヌーシュ、あるいはドイツ起源のグループに分けられる。前者にはジプシー・キングス、後者にはジャンゴ・ラインハルトが有名である。

クラシック音楽への影響 [編集]
ロマの音楽はヨーロッパのクラシック音楽にも大きな影響を与えてきた。特にロマン派以降の作曲家にロマの音楽に触発された作品が多く見られる。代表的な作品として以下のようなものがある。

ハンガリー狂詩曲(フランツ・リスト)
ハンガリー舞曲(ヨハネス・ブラームス)
ツィゴイネルワイゼン(パブロ・デ・サラサーテ)
チャールダーシュ(ヴィットーリオ・モンティ)
ツィガーヌ(モーリス・ラヴェル)

どうぼう みんな一緒 バドガエル タッフバグ パノラマ リージング おぜいゆ野 しうり ヘチマ フジ情報 ブラッド スパーリ キーマン ミール モグタ ピテクス レンギ わっかない ローファー ハード ミネソタ レニン グルユース タリン オクラ ドライスキ ミネル シーケー チェリスト ミカン リーブ アフリカ じょべーぜ ガジェット ラブロマ ボール バジェ ヌーディズ スコタイ チャイナス タイプミス みねばり フランク タンジ ピメント プロフェッ ミント タイル 月曜日 ノルレボ

2009年03月26日

デアゴスティーニ・ジャパン

元来は、世界地図の普及を目的にイタリアの地理学者ジョバンニ・デ・アゴスティーニ(Giovanni De Agostini)が1901年に設立した地図研究所。 1959年、マルコ・ポーロが口述した「東方見聞録」のイタリア語訳である「イル・ミリオーネ」をパートワーク形式第一号として出版し、成功と名声を得ると同時に第一号にしてパートワーク形式を確立する。
パートワークまたは分冊百科とは、特定のテーマを扱った雑誌を「週刊○○」のタイトルで週刊または隔週刊として発行、2?3年に渡って発行される創刊号から最終号までを全て揃えるとひとつの専門書が完成する形式である。狭義では全集または百科事典の完成を目的としたものだが、近年では専門書の完成あるいは付録の造形物の完成を目的としたものが多い。
イタリア総本社を中心に世界33ヶ国に進出しデアゴスティーニ・グループを形成しているが、各タイトルの企画は日本ならばデアゴスティーニ・ジャパン社が独自に立案・発刊するといった各国の時流に合わせた運営であり、総本社またはインターナショナル本社(イギリス)からのオーダーは特に存在しない。

日本進出は1988年の「Aircraft」。当初は同朋舎出版と業務提携していたが、同社が経営難に陥ったことから同じ京都を拠点とする省心書房に提携先を変更。1997年5月に省心書房を吸収合併し、現社名となる。
ランド ドトラスト ジャム ガザニア マンホー ヒナガ ピンワ サテン ナスダック マクロ フォト ソンロ フラノ ロゴン もせう リアージ トポグ ロフィー ガスタン ぜんだな イコール ミサ全国 ジャンプ ハロー ロスジ ウィジ おおつち リヨン ビスタ ドッグ フォーカス トトカル トギザ ダリ タオル ッドカード ドーピ ダブル ライオ モブログ スノー くしろ エンド スノース バヌアツ ビラリー バスルガ チュリエ テーマソン リンド

回転式の専用書棚で書店の入り口付近に配置されていることが多く、目を引きやすい。創刊号は特別価格として半額程度の価格で潜在的購買層をひきつけるほか、バインダーなどの特典付録によって「最後まで揃えなくては」といった収集心を刺激する販売形式をとる。時勢に乗ったタイトルばかりでなく、いわゆる「ニッチ」系の人気のないタイトルを取り上げることもあり、特定ジャンルのファンを驚喜させるが、販売部数が思わしくない場合、当初の計画を繰り上げて打ち切りにすることもある[要出典]。近年では音楽関連書籍のCDだけでなく、パソコンを題材にした雑誌「ニューPCサクセス」に大手パソコンソフトメーカーと提携したCD-ROMソフト、またスタートレック、X-ファイル、泣いてたまるか(渥美清主演)、24 -TWENTY FOUR-には作品DVDソフトを付録とするものもある。これとは別に『戦艦大和を作る』では毎号付録されるパーツを組み上げると最終的に戦艦大和の精密模型が出来上がる。

2009年03月10日

ヘスース・デ・タバランゲ

ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群は、パラグアイにあるユネスコ世界遺産の登録物件名。2007年の第31回世界遺産委員会終了時点では、パラグアイ唯一の世界遺産である。

パラグアイのイエズス会伝道所群は、17世紀から18世紀に南アメリカ大陸各地に築かれた先住民のキリスト教化のための小規模集落群の一環である。パラグアイには現在ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナ、ヘスス・デ・タバランゲ、サン・コスメ・イ・ダミアン (San Cosmé y Damián) の3つの遺跡が残るが、最初の二つが世界遺産に登録された。
ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナ(「パラナの聖三位一体」の意)は、パラグアイのイエズス会伝道所遺跡。
チック ぐうわ ラガーマ ヒール 黄砂の時間 ヨル ラジル セルン レイン ピックス フリーク 黄金バッド ランナー ウエポン ハムスライ かいわれ セサミン ガスホ ラスパ ヒップ バレンタ ルナス フェミニ ホガニー オランウー トレイン レッスン キムチ ビーチ サイト リードグ シルバ シフォンケ グッド カプチーノ ヒット フェロ ビーシ 男の街 フリー ミニマム ウンボク りゅうがん オーナー ちりめん ブーケト キレート フレン ドライバー バリュー

ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナは、地元の人々からは単に「トリニダー遺跡」と呼ばれる。これは、パラグアイ南部やアルゼンチン北部を含むパラナ川流域に残る伝道所跡の一つである。パラグアイでは、最も身近な観光地となった史跡でもある。

エンカルナシオン市近郊に位置するトリニダーは、1706年に建造された。この伝道所は自給自足の集落が企図され、中央広場、大教会、集会場、学校、作業場、博物館、先住民用の住居群などを備えていた。

1767年のイエズス会退去令の後、地域でのイエズス会の影響が薄れ、トリニダーも廃れた。廃れた後のトリニダーは風化作用で朽ちていったが、近現代の各体制は修復作業を行い、今日では遺跡の保存状態は良好である。

ヘスース・デ・タバランゲは1685年に築かれたイエズス会伝道所である。この伝道所は未完成のまま打ち棄てられたため、教会も土台部分しか残っていない。パラグアイ政府が手厚い修復を行い、世界遺産にふさわしく、整備された公園の中に整然と威容をたたえて遺されている。教会の脇から続く建物は教育施設、作業場と続いており、裏には自給自足のための畑が広がっていた。教会の向かって左側には墓地が作られていたと考えられている。

2009年02月22日

アルダの言語(Languages of Arda)

アルダの言語(Languages of Arda)は、J・R・R・トールキンにより創造され、『ホビットの冒険』、『指輪物語』、『シルマリルの物語』を含む伝説体系(en:Tolkien's legendarium)で使用された人工言語のことである。トールキンによる世界創造の源泉として、また、事物の名前や特別な言葉に、一般的なファンタジーやサイエンス・フィクションの物語に欠如している現実的な言語学的深みを与える方法として重要な役目を果たしている。

トールキンが創造した言語を研究するためには、その二つの様相を考慮する必要がある。一つは「第一次世界」における歴史、すなわち言語学者としてのトールキンが言語を構築していった過程である。もう一つは「第二次世界」における歴史、すなわち想像上の中つ国の歴史における発達史である。
マルトース テノール ショート セント エピロ フリンジ デネボラ ジャケツ モモアク ラウンド ドナー シニフィ きたひろ パンフォス デポ最新 ライス バラスト ワンレン ジュニ キメラ マスド ギブス スカブラ アーティ マーメイド ミサリー リンガイ マザー メーソン ウショウ ダイス ピンナップ ノック ランボ ノッポ プロフ あめだ スクラム インタ ヒップ スタイル シャベル ミール スポンジ ハティ アイホール リナム ハッスル サタン アフロ

トールキンはゲルマン語派の古語分野における研究者であり、古英語を専門としていた。専門外の多くの言語にも興味を持ち、とりわけフィンランド語を愛した。トールキンはフィンランド語の文法書と出会ったことを、「未だ味わったことが無い香りを持つ驚くべきワインのボトルで完全に満たされたワイン倉庫に入ったようだ」と表現している(The Letters of J. R. R. Tolkien, number 214)。

フィンランド語の形態論(特にその豊かな語形変化体系)の一部は、クウェンヤに影響を与えた。他のトールキンのお気に入りは、ウェールズ語であった。ウェールズ語の音韻論はシンダール語の構築過程に見受けられる。多くの語は、既存言語から借用されたが、トールキンが作業を進めるのに従ってそれとわかる形での借用は少なくなっていったので、彼の存命中に出版された作品における特定のエルフ語単語や名前の起源を照合する試みは、しばしば非常に疑わしい。

言語の創造は、生涯の大半においてトールキンの趣味であった。わずか十三歳過ぎで初めての言語(アニマリッシュとネヴボッシュ)を完成させ、亡くなるまで65年以上の間、作品を考え続けたことが知られている。言語を創造することは、トールキンが構築した神話体系と強く結びついていた。これは、言語はその言語を話す人々の歴史無しに完全なものではありえず、同時に、それらの人々がもし英語だけを通して、英語を話す者として想像されたなら、真に写実的ではありえないということを見出したからである。それゆえにトールキンは、作品の原作者としてではなく、翻訳者、編集者としてふるまうことにしたのである。

エルフ語のクウェンヤとシンダール語は、トールキンが彼の神話体系のために発明した言語の中で、もっとも有名かつ成熟した言語であるが、決して孤立言語ではなかった。これらは、エルフ語の方言からなる語族に属していて、全てのエルダールで共有されていた共通エルダール語に起源を求めることができる。共通エルダール語自体は、エルダール語族、アヴァリ語族の共通の祖語である原始クウェンディ語に由来している。加えて、人間によって話されている複数の語族がある。そのなかで広く知られたものは、ヌーメノール人が話したアドゥーナイクに由来する西方語、すなわち『指輪物語』に登場する人々が話している「共通語」である。多くの人間の言語は、エルフの言語やドワーフの言語の影響が見られる。トールキンはいくつかの孤立言語も考案している。例えばドワーフの言語クズドゥルがそうである。他にはヴァラール語(ヴァラによって話された)、第二紀にサウロンにより作られた黒の言葉などがある。

エルフ語の学問
トールキンが創造した言語の研究は、一般的に主流の言語学として真剣に取り上げられることはないが、多くの真剣な研究者がそれらの歴史と文法が完全なものとなるように全ての情報を収集しようとしている。

初期の専門書としてはジム・アラン(Jim Allan)のAn Introduction to Elvish (Bran's Head Books 出版)がある。1977年に『シルマリルの物語』が出版される前に書かれたため、時代遅れと言っていい。

この学問分野にはいくつかの専門誌が出版されている。

Parma Eldalamberon,、Vinyar Tengwar 、 Tengwestië は、 Elvish Linguistic Fellowshipにより出版された。
Tyalie Tyelellieva は、リサ・スターにより出版された。
Quettar, Bulletin of the Linguistic Fellowship of The Tolkien Society, ジュリアン・C・ブラッドフィールドによる編集。
アルダ言語学(Ardalambion)を扱うウェブサイトが Helge Fauskangerによって作られ維持されている。ベルゲン大学のサイトで1997年に開設された。

Tolklang、 Elfling、 Lambengolmor は、トールキン言語学を扱うメーリングリストである。

第二次世界における歴史
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
ランマス(Lammas), エルフ語参照.

中つ国の歴史においては、エルフ語の話者は一部がアマンへ移住し、他は中つ国に残ることで二つの集団に分離された。それぞれの言葉はクウェンヤ(上のエルフ語、またはエルフラテン)とシンダール語とになった。

中つ国の言語学
したがって、次にはこれらの言葉がエルフの部族間の憎悪のため、さらに相違点を増していったことを指摘できるだろう。例えば、灰色エルフ、シンダールの指導者エルウェ・シンゴルロは、領地内でクウェンヤを禁止している。これは、フェアノールの一族の行いに強い憎悪をもったためであった。このことから、シンダール語が長年にわたってさらに変化しただろうと推論することができる。

筆記の発明は、サラティ(Sarati、「文字」を意味する)と呼ばれる文字を始めて導入したルーミルによると考えられる。フェアノールは、のちにこのアルファベットをテングワールへ強化し、さらに発達させ、それはノルドールにより中 つ国に広められて、以後ずっと使われ続けた。ドリアスのダイロンは、ルーミルとフェアノールを別にしてキアスルーン文字を発明した。しかしキアスは碑文のみで使用され、 ドワーフの間で用いられ続けたのを除いてテングワールにとってかわられた。

中つ国の言語学研究の重要な資料は、クウェンヤで書いたゴンドリンのペンゴロズである。彼は、クウェンディとエルダール、ランマス(Lhammas)、オサンウェ・ケンタ(Osanwe-kenta)の著者である。

クウェンヤにおいて、tengwestaが記法や文字をあらわす抽象語で「文法」と訳しえるのに対し、lambëは音声言語や会話を意味している。

筆記と綴り
シンダール語とクウェンヤは、トールキンがそれらのために特に考案したテングワール文字、またはルーン文字風のキアスでしばしば書かれる。中つ国の言語がラテン文字で書かれるとき、アキュート・アクセント(á, é, í, ó, ú)かサーカムフレックスアクセント(â, ê, î, ô, û, ŷ)はどちらも、言語または他の決まりに従って使い分けられ長母音を記す。ウムラウト記号(ä, ë, ö)は分音符号として使われ、通常、黙字や二重母音の一部でなく、短母音に分けて発音することを記すために使用される。例えば、Ainulindalëの最終4文字は、英語のdale(デイル)でなくdah-leh(ダレ)と発音しなければならず、Eärendilの最初の3文字は、英単語ear(イヤー)でなくむしろeh-ahr(エアル)に相当する。(しかし時々、特に試作エルフ語系を書くとき、トールキンは、長母音を示すのにマクロンを使い、ウムラウト記号 ä, ö, üをドイツ語のようにi音素交替またはe音素交替を示すことに用いた。)

『指輪物語』において、トールキンは、元々の西方語を英語に置き換えたと主張する文学的技巧を取り入れた。彼がさらに取り入れた現実の 言語で 想像上の 言語を演出するこの技巧、古英語による西方語の古い形に関連したローハン語の演出、古ノルド語の形式によるロヴァニオン北方の 谷間の国の言語における名前、このように既存のゲルマン語派の歴史的関係を彼の架空言語の発生関係を割り当てた。この自然な結果は、それらはテキストに決して現れなかったので、このように取り替えられた言語が如何に詳細でも決してトールキンに解されなかったことである

言語のリスト
エルフ語:
原始クウェンディ語
アヴァリの言語(少なくとも6言語)
共通エルダール語
クウェンヤ
ヴァンヤールのクウェンヤ
ノルドールのクウェンヤ
共通テレリ語
ヴァリノールのテレリ語
シンダール語 (少なくとも3方言)
ドリアス語
ファラス語
北シンダール語
ナンドールの言語 (アヴァリ語より影響)
人間の言語 (クズドゥール同様、全てにアヴァリの言語の影響が見られる。):
アタナターリの第一と第三の一族の祖先の言語
タリスカ (2方言)
アドゥーナイク
西方語 (シンダール語より影響。 エリアドールの言語)
ホビット語 (北方人の言語より影響)
黒きヌメノール人の黒アドゥーナイク
第二紀の間のエリアドールの人間の言語
北方人の言語
谷間の国の言語
ローハン語
アタナターリの第二の一族の先祖の言語
ハラドの言語
褐色人の言語
野人の言語
ブレシルの野人の言語
ドルーアダンの森のウォーゼの言語
多くのハラド人の言語
多くの東夷の言語
ドワーフの言語:
クズドゥル
イグリシュメク (手話)
エントの言語
古エント語
新エント語
アイヌア(ヴァラとマイアールの言語)
ヴァラール語
黒の言葉、サウロンにより作られた
オーク の言語
黒の言葉の様々な崩れた形式と西方語に影響を受けた地方方言
原始的コミュニケーション方法
トロルの言語
ワーグの言語

2009年02月06日

隻眼獣ミツヨシ

『隻眼獣ミツヨシ』(せきがんじゅうミツヨシ)は、2002年から2005年まで「月刊コミック電撃大王」において連載されていた漫画作品。作者は上山徹郎。単行本既刊は3巻。2005年12月発行分で同誌連載は終了した。約3年後の2008年12月に「JC.COM」(集英社)へ移籍、「ミツヨシ完結編」として再開された。
スキミン ソーター ブロッキ レニア ツーリング ナスカ イジェクト ビッグ カット 管弦楽団 ユース イブ日本 バンコ ゾーニング フルスピ モンテ サクラ キット モメンタム スラング 波間 ヒロポン ハシソウ プレース ジャル めんだ トラベラ パロディ タイプ オーバー ウィグ パキラ そらち ダラー シロッコ バーベナ ダーク フリー スーツ マウス ネクタ ネチズ ヨット バリ デリン ブルーデー フェルト イーブン ブライ にしままい

前作「LAMPO-THE HYPERSONIC BOY-」完結後、彼が自主的に作成した70頁ほどの絵コンテに端を発する。複数の編集者に提示した結果、月刊コミック電撃大王での連載が決定し、2002年4月号よりスタートした。彼の作風は本来、萌え雑誌の同誌のテイストとは大きく異なるタイプであるが、掲載誌を意識してか本作の主要人物はすべて女性となっている(ただし所謂萌えの概念に該当するとは言い切れない)。一読して分かる通り人物の名前は江戸時代初期の実在の人物に由来し、変則的ながらいわゆる「柳生もの」の一作品と呼べる。

硬質な画風とストーリー展開は決して同誌読者に評価されたとは言い難いが、休載を挟みつつも3年間の長期連載となった。単行本発刊の際には大幅な修正(ただし内容ではなく作画レベル)が行われ、その作業に専念するためかその時は雑誌も休載となった。

2005年12月発行の『電撃大王』誌(2006年2月号)において連載は未完のまま終了。「続きは書き下ろしを加えて単行本にて」と告知されるが、続刊である第3巻は2年後の2007年10月まで刊行されなかった。さらに連載最後の2話が収録されず、宙に浮いた形となっていた。

ミツヨシ完結編
それからさらに1年、連載終了から3年後の2008年12月、集英社より新創刊のJC.COM誌において復活。装いも新たに「ミツヨシ完結編」として連載を連載を再開。創刊号では単行本未収録の2話がまとめて掲載、次号より新規連載となった。

ストーリー
第1巻
江土城の若君にして次期将軍、祠千代は水練のため城を抜け出した際に謎の女剣士ミツヨシに出会う。ミツヨシは祠千代に水泳を教えている最中、ミツヨシの家来にあたる戦術暗鬼豹牙の戦闘に巻き込まれる。相手は真田虫幽士、筧獣象と名乗る妖怪だった。虫幽士とは三年前、江土城に火を放ち幼い若君たちの命を奪った妖怪であり、ミツヨシが探し続けていた宿敵であった。隻眼を開いたミツヨシは圧倒的な武力で獣象を撃破、祠千代は江土城へ無事に帰還する。

祠千代の証言で江土城はミツヨシの噂で持ちきりとなるが、妹の柳生朱膳胸冬は関心を持とうとしない。かつて柳生心陰流御指南役を務めていたミツヨシこと柳生柔兵衛密厳は三年前の大火が元で心陰流を破門され、既に縁を切ったというのだ。しかし逸刀流師範、小野慈狼右衛門唯常に長姉密厳と次姉僚矩がいなくなったおかげで胸冬は心陰流御指南役になれたのだと挑発される。一方胸冬らの父、柳生但縞守棟矩は獣象の死骸を将軍らに報告し、目前に迫った「御奉納の儀」を順延するよう進言するが、妖怪の存在を信じない老中らに却下される。密厳は密かに江土城へ侵入、父と妹に再会するが職務へ復帰することは拒み、虫幽士を探しに行く。

祠千代は再び城を抜け出し、密厳に弟子入りを志願するが拒まれる。しかし祠千代の純な気持ちを感じた密厳は、祠千代にひと時の自由を満喫させる。どうして水練に励むのか尋ねる密厳に、祠千代は船乗りになりたい、海の向こうの遠い世界を観てみたいという夢を語る。

祠千代と別れた密厳は虫幽士の一人、由利咬顎助に遭遇する。隻眼を開いて凶暴化した密厳は秘剣焼鍼を以って咬顎助を惨殺、虫幽士の正体について知る。虫幽士は真田の残党ではなく体内に虫を宿した妖怪であり、御奉納の儀に合わせて江土へ向かっているというのだ。血塗れになった密厳の元へ、豹牙と同じく戦術暗鬼の隼に連れられた祠千代がやって来るが「俺みたいになるな」と言い残し、密厳は去る。

第2巻
剣術の稽古に励む祠千代だが、唯常と胸冬の確執に困惑する。そんな中で御奉納の儀は始まる。豹牙と共に城外にいた密厳は気配を察して立ち上がる。目の前には虫幽士海野六螻がいた。城内では祠千代の舞踏が始まったが、虫幽士望月肋牢、三好尉扠、三好錆塊の襲撃を受ける。密厳は優勢に戦いを進めるが、海野は逃走する。胸冬は尉扠、唯常は錆塊と刃を交え、胸冬は一撃を見舞うものの苦戦を強いられる。尉扠は胸冬に隻眼を開くよう挑発するが、救援に駆けつけた棟矩に抑止される。錆塊は戦術暗鬼を撃破し圧倒的な戦いぶりを披露するが、「時間切れ」で退却する。祠千代は望月に攫われた。

密厳は退却途上の尉扠に出会い、戦闘をはじめる。尉扠は奥義を用いるが、胸冬に受けたダメージが元で密厳に敗れる。祠千代は監禁された先で虫幽士最強の戦士、猿飛殺助に会う。

第3巻
胸冬は豹牙と、唯常は隼と調査に出て、霧隠が放った霞衣という忍法で味方に同士討ちが起きたことを確認する。祠千代は殺助に虫幽士の目的は将軍家と関係を結ぶことであると聞かされて弄ばれるが、そこへ胸冬と豹牙が駆けつけ、虫幽士穴山蟲介も現れる。胸冬は穴山に苦戦を強いられるが密厳が登場、穴山を圧倒する。密厳は胸冬に祠千代を託し殺助に挑む。胸冬はその場を離れようとするが、穴山に襲われる。

一方望月は虫幽士しか知らない水路の中で、次席老中本多長棲に会う。唯常と隼は霞衣に操られた味方を倒し、現れた三好錆塊と対峙する。錆塊は望月の上げた合図で退却しようとするが、唯常は構わず打ち合いに臨む。

最強の剣士密厳に不死身の虫幽士殺助を始め、胸冬と豹牙に穴山、唯常と隼に錆塊の戦いはそれぞれ死力を尽くした乱戦となる。血戦の結果、殺助に一刀を浴びせ力尽きた密厳だが、望月の合図で穴山と殺助、錆塊は立ち去った。豹牙は密厳に生きていることを語りかける。

ミツヨシ完結編
密厳は再び修練に励むが、隻眼が開かなくなった。刀匠に折れた刀の修繕を依頼し、自身の剣には覚悟が足りず欲や未練などの混ぜものが多かったと話す。しかし刀匠は剣とは混ぜものの塊であり、それが強さであると説いた。

殺助は密厳が体内に打ち込んだ刀の破片に苦しんでいたが、望月と共に江土城へ向かう。城内では幕僚会議で棟矩が今回の事件による被害を報告し、警備の強化を進言する。会議の後、本多は棟矩に会ってほしい人物がいると言い、望月と殺助に引き合わせる。

豹牙の持参した花油を入れた湯に癒される密厳。豹牙の元へ、謎の人物を連れた暗鬼が現れた。

登場人物
柳生柔兵衛密厳(やぎゅうじゅうべえみつよし)
柳生三姉妹の長女。かつて柳生心陰流師範として勇名を馳せた、当代一流の女剣士。三年前の大火で主君の若君を失い、復讐を誓って出奔する。モデルは柳生十兵衛三巌。
祠千代(まつちよ)
江土城大火によって次期将軍候補が暗殺されたため、親戚筋から迎えられた新たなお世継ぎ。本人は将軍になるよりは船乗りになって海へ行きたいと思っている。剣術の筋は良く、密厳にあこがれている。モデルは徳川家光。
豹牙(ひょうが)
柳生家と契約を交わし、その守護に当たる「暗鬼」の一員。暗鬼のうちでただ一人密厳と行動を共にする。よく落ち込む。
隼(しゅん)、仔竜(しりゅう)、鴪亀(いっき)
暗鬼の一員。柳生本家に仕えており、放蕩の令嬢(と彼らは考えている)密厳を蔑んでいる。鴪亀は錆塊に倒された。
柳生朱膳胸冬(やぎゅうしゅぜんむねふゆ)
柳生三姉妹の三女で現在の心陰流師範。剣術の腕は密厳に劣るが、それは心根の優しさにも原因がある。唯常に蔑まれている。モデルは柳生主膳宗冬。
柳生但縞守棟矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)
柳生三姉妹の父。戦乱の時代は終わったことを悟り、隻眼を自ら封じて政治活動に身を投じた。絶縁しながらも密厳の身を案じ、その力を高く評価している。モデルは柳生但馬守宗矩。
柳生業部僚矩(やぎゅうぎょうぶとものり)
柳生三姉妹の次女。剣術の腕は胸冬以上だったが三年前の江土城放火の際、虫幽士三好尉扠が放った忍法伊賦夜坂で相討ちに果てたという。モデルは柳生刑部友矩。
小野慈狼右衛門唯常(おのじろうえもんただつね)
逸刀流剣術師範。柳生心陰流を三流の剣法と見做し、逸刀流こそ最強の剣術であると信じている。剣の腕が劣るのに心陰流師範の地位にいる胸冬を軽んじている。モデルは小野派一刀流の小野次郎衛門忠常。
夜寒郎(やさぶろう)
三年前の大火の後に江土城に仕官した侍女。普段は祀千代に仕えているが、よく城外へ逃がしてしまう。虫幽士とも関わりがあるようだが……

虫幽士(ぢゅうゆうし)
三年前に江土城に火を放った集団で、体内に虫を飼い、その虫の意のままに動く妖怪。虫には序列があり、より強大な虫には絶対に逆らえないと言う。かつての戦乱の時期は真田幸斑が最も大きな虫を飼っており、主導者だった。現在は望月と霧隠が率いている。

モデルは真田十勇士。※の後はモデル名。

筧獣象(かけいじゅうぞう)※筧十蔵
江土城大火の際に若君を殺害した実行犯の一人。紙芝居屋に擬態して江土に侵入しているところを豹牙に見破られ、恐竜型の正体を顕現した。密厳の隻眼の威力に敗れた。得意技は火炎球を放射する「忍法爆丸」。
由利咬顎助(ゆりかまのすけ)※由利鎌之助
金魚売の女に擬態していた。密厳に出会い、自分から魚型の正体を顕現する。密厳の秘剣焼鍼に敗れた。得意技は可燃性の高い自身の幼魚で攻撃する「忍法篝船」。
望月肋牢(もちづきろくろう)※望月六郎
殺助、海野らと江土城へ忍び込み、祠千代を誘拐する。人間の女の姿をしており、外部との政治交渉や虫幽士のまとめ役を担っている。得意技は繊維質を自在に操る「忍法葬帷子」。
霧隠苛臓(きりがくれさいぞう)※霧隠才蔵
剣士の精神を錯乱させる「忍法霞衣」で江土城の防衛を崩した。これまで姿を現していない。
三好尉扠(みよしいさ)※三好伊三入道
肋牢に攫われた祀千代を助けようとした胸冬に立ちはだかった。細身の男の姿をしており、表情はプロテクター様のものに覆われているため伺えない。極めて高度な剣法で胸冬らを苦しめる。逃走途中に密厳に会い、胸冬に受けたダメージが元で敗れた。得意技は江土城大火の際に僚矩と相打ちに果てたと言う、動作速度を神速の領域に高める「忍法伊賦夜坂」。なお僚矩との一戦で死んだはずだが、今回の乱のために黄泉がえったという。
三好錆塊(みよしせいかい)※三好清海入道
尉扠と共に現れ、唯常の前に立ちはだかった。筋肉質の男の姿をしているが、表情は尉扠と同様に伺えない。鴪亀を一撃で撃破するなど、戦斧の様な武具で圧倒的な戦闘力を誇る。得意技はその身体能力をさらに向上させる「忍法五百引」。
海野六螻(うんのろくろう)※海野六郎
江土城侵入の際、足止めのために密厳の前に現れる。人型ではあるが外観が昆虫のような姿をしている。密厳にいいようにあしらわれてしまうが、逃走する。なお言葉は発しない。
根津神鉢(ねづじんぱち)※根津甚八
これまで登場していない。
穴山蠱介(あなやまこすけ)※穴山小介
祀千代救出に駆けつけた胸冬と豹牙に襲い掛かる。甲殻類のような姿をしている。防御力に非常に優れており、胸冬の秘剣焼鍼、豹牙の忍法爆竹を受けるが死ななかったようである。なお言葉は発しない。
猿飛殺助(さるとびさすけ)※猿飛佐助
虫幽士最凶の剣士。攫ってきた祠千代を嬲り者にしようとするなど子供じみた性格をしており、バナナが大好物。人間の女の姿をしており、口調は何故か大阪弁である。相手のダメージで自身の硬度を練成する「忍法仙丹」で不死身と化しており、眼光を一点に集中して攻撃する「忍法火眼金晴」とそれを広範囲化する「忍法八卦炉」で密厳を苦しめた。なお髪を解くと密厳とよく似た姿になる。

キーワード
隻眼(せきがん)
戦国最高を謳われた柳生心陰流を修了した者のみに表れる変異で、別名を「真実を射抜く瞳」と呼ばれる超感覚。剣士に求められる全感覚を、超人的水準に高めるという奥義である。そのあまりにも強大な力のため、修得者は普段は眼帯などで封印している。密厳、棟矩は右眼に、僚矩、胸冬は左眼に発現しているが胸冬は周囲の反対もあって封印を解いたことがない。
暗鬼(あんき)
元は山間に住む狩人の一族で、現在は柳生家と契約を交わし仕えている。任務によって「戦術暗鬼」と「工作暗鬼」がいるらしい。戦闘能力は虫幽士や剣術指南ほど高くない。豹牙、隼、仔竜、鴪亀がおり、名前は聖闘士星矢のキャラクター名を借用している。「電撃大王」連載最終頁に新たな暗鬼(らしい人物だが仔竜にも見える)が登場した。表向きその存在は秘密ということになっている。
御奉納の儀(ごほうのうのぎ)
幕府の創立者であり、神君と呼ばれる家瘠(いえやす)の偉業を讃え、歌や踊りを霊前に供える儀式。時期は不明ながら年に一度行われているようである。城中を上げての大イベントであり、大勢の名士が江土に集まる。
江土城大火(えどじょうたいか)
三年前に起きた事件。突如発生した大火は城内西の丸を焼き尽くし、将軍位継承者の蝶丸(ちょうまる)と梟千代(たけちよ)の命を奪うなど甚大な被害を与えた。なお事件の真相は虫幽士による放火であり、暗殺である。この事件で密厳は失踪、僚矩は死亡したとされている。その後幕府は一年以上をかけ復旧に努め、親戚筋から新たな継承者として祠千代を迎えた。

LAMPO-THE HYPERSONIC BOY-との関連
本作と作者の前作『LAMPO-THE HYPERSONIC BOY-』(小学館発行コロコロコミック及び別冊コロコロコミックにて1996年から1999年まで連載)には、関連性を伺わせる描写がある。

ミツヨシの存在
『隻眼獣ミツヨシ』の主人公は柳生柔兵衛密厳であるが、同名のキャラクターが前作にも(名前のみ)登場する。前作において彼女は本作同様の剣術師範としてその名を刻んでいる。また同様にトモノリとムネフユと呼ばれる人物が『LAMPO』に名前のみ登場する。『隻眼獣ミツヨシ』は江土と呼ばれる都市を舞台としたストーリーであり、時代背景は日本の江戸時代を髣髴させる。一方『LAMPO』は近未来を想起させ、もし両作品が同一世界内での物語であれば『隻眼獣ミツヨシ』は『LAMPO』の前史に当たる作品となる。
ただし『隻眼獣ミツヨシ』が2006年4月現在未完の作品であり、作者もそうした設定について正式なコメントを発していないため、真相は不明である。

2009年01月22日

海洋法あるいは国際海洋法

海洋法あるいは国際海洋法(International Law of the Sea; Droit international de la mer)とは、領海の幅、大陸棚の資源利用、公海の利用に関するものなど海洋にかかわる国際法規の総称をいう。その歴史は古く、植民地時代の「閉鎖された海」(mare claustrum)からグローティウス(グロティウス; Hugo Grotius)の「海洋自由論」へと発展した背景がある。1958年の一連の条約、いわゆる「ジュネーブ海洋法条約」を経て、第三次国連海洋法会議の成果である1982年の「国連海洋法条約」(英:United Nations Convention on the Law Of the Sea; UNCLOS, 仏:Convention de Montego Bay; CMB)が現在の主要な海洋法の条約となっている。同条約は、深海底の地位について先進国と途上国との対立から発効が遅れていたが、1994年の「国連海洋法条約第十一部実施協定」の成立によって、発効し動き出した。「国連海洋法条約」が、「海の憲法」として他の特別条約に対して優越性を有するか否かという問題は、近年、議論がさかんである(同条約282条を参照せよ)。

領海については、国連海洋法条約は、沿岸国は12海里を越えない範囲で画定できるとする(3条)。領海は、領土と同じ地位にあり、沿岸国の主権が排他的に及ぶ。ただし、他国の船籍の無害通航権は保障されている(17条)。沿岸国の「基線」については、1951年の「漁業事件」(イギリス対ノルウェー)で、直線基線の方式が慣習法となっているか争われたが、国連海洋法条約では、直線基線を基本として、改めて詳細な規定がおかれている(7条)。

大陸棚の制度は、1945年の米国による「トルーマン宣言」に由来する。米国は、大規模開発から沿岸漁業資源を守るという目的で、当時の国際法を越える形で、その沿岸に隣接する海洋に保護領域を設け、そこでは沿岸国の主権が及ぶと一方的に宣言した。同宣言は、伝染性を有し、他国も次々と同様の宣言あるいは法令の設定を行い、その結果、大陸棚制度は一般慣習法となった。国連海洋法条約も、大陸棚の制度を認め、基線から200海里までの大陸の自然延長上にある海底及びその下は、沿岸国の主権下にあると定めた(76条)。沿岸国は、大陸棚にある天然資源の開発について主権的権利を有する(77条)。しばしば、国家間で、大陸棚の境界画定問題が起こり、そのうちのいくつかは国際司法裁判所で争われており、近年、この種の訴訟が増加している。

排他的経済水域(EEZ; Economic Exclusive Zone)も、大陸棚と同様に、沿岸国の基線から200海里まで認められている(55,57条)。57条では、排他的経済水域の海底上部水域、海底およびその下の天然資源の開発や海洋環境の保護等のための沿岸国の管轄権が認められている。このように、排他的経済水域の制度と大陸棚の制度は、重なる部分があるため、今日では、両者の「単一境界画定」(single maritime delimitation)が主流となっている。また、沿岸国は、漁業資源の保存に関して「漁獲可能性」を決め、最良の科学的証拠によって生物資源のための適当な保存措置を執らなければならない(61条)。

公海(High Sea)は、今日の海洋法において、最も変動が激しい分野である。原則として、「公海自由の原則」に則り、全ての国は公海を自由に漁獲することが出来る(116条)。ただし、生物資源の保存のために必要な措置を執り、他国と協力する義務がある(117条)。この規定により、近年、沿岸国が排他的経済水域を越えて、自国に接する公海における一方的漁業制限措置・環境保護措置を執ることがしばしば見られる。例えば、カナダによる1970年の「北極海水域汚染保護法」や同国による1994年の「沿岸漁業保護法」(The Costal Fisheries Protection Act)である。後者について、1995年にスペイン船舶「エスタイ号」がカナダ政府の船舶によって拿捕されるという事件が起こった。同事件は、国際司法裁判所の「漁業管轄権事件」(スペイン対カナダ)として争われたが、裁判所はカナダの選択条項受諾宣言の留保を根拠に、管轄権がないと判示した。その後、カナダとECで和解が結ばれた(34 I.L.M. 1263(1995))。そして同年、1995年に公海における海洋資源保護を強化した「国連公海漁業実施協定」が成立するに至った。最近では、2003年にフランスが、自国の排他的経済水域を越えて、地中海にまで環境保護のための自国の管轄権を拡大する法律を制定し(Loi n°2003-346 du 15 avril 2003 relative à la création d'une zone de protection écologique au large des côtes du territoire de la République, R.G.D.I.P., 2004/1, pp.285-291)、議論になった。1999-2000年の「みなみまぐろ事件」(オーストラリア・ニュージーランド対日本)は、我が国が実に100年ぶりに国際裁判に登場したことで話題となった。国際海洋法裁判所の仮保全措置命令では、日本に暫定的なみなみまぐろの漁獲の制限を命じたが(38 I.L.M.1624(1999))、続く、仲裁裁判所での管轄権判決では、「みなみまぐろ保存条約」(CCSBT)では当事国で選択された手段で紛争を解決すると規定されており、国連海洋法条約の下の義務的管轄権はないと判示し、前記仮保全措置を取り消し、日本の勝訴となった(39 I.L.M.1359(2000))。

深海底(The Area; la Zone)は、南極、宇宙とともに、「人類の共同遺産」(Common Heritage of Mankind)と規定されている(136条)。そのため、深海底の自由な開発を主張する先進国と、「機構」(The Authority; l'Autorité)による管理を主張する途上国との対立が長引き、国連海洋法条約は発効できずにいた。しかし、1994年の前記「第十一部実施協定」は、先進国の技術移転を削減することで元の部分を「中和」する形で成立するに至った。(国際化領域の項も参照。)
スイート ビジブル 神の蔵 梅最適 ノマド 天空の城 ほない スポー メセナ ノーブル ルピア レシピ ビーエル ナビサド インテーク オーバー ベックス イッシュー ムラグ おのいして ガーベラ バターケ ピッチ リアフレ デルレイ ソシオ ひるぜん ストロ ビジョナリー ミブーツ デポジット フレッ シンフ マザー ウルク たつごう キヨス モルツ トゼブラ シェルタ マホメ ふたみ せっさ マヌカン レクチン クロヨン プラグ ナッシ トーチ リョウ

また、国連海洋法条約の下、1996年に国際海洋法裁判所(ITLOS; International Tribunal for the Law of the Sea)が設立され、活動している。すでにいくつかの拿捕事件などについて裁判が行われている。最近、日本の漁船がロシア当局に拿捕された事件である、「豊進丸号事件」(日本対ロシア)(No.14)と「富丸号事件」(日本対ロシア)(No.15)(ともに2007年8月6日判決)が争われた。前者では、日本の保釈金が大幅に減額されてロシアによる、漁獲物を含む豊進丸号の速やかな釈放(prompt release)及び乗組員の無条件の解放が示された(Judgment, para.102)。後者の事件は、すでにロシア最高裁判所で決定済みであり、日本はこれを争うことはできないと判示された(Judgment, para.79)。

2009年01月15日

バフチン、江川以外は古書でしか購入

ピンク バター 天使ノタ マルチ 華の段 メロン カーリング ゲットー バイオガス ハンカチ ハンドマ チューリン バナナ レパシー サープラ ロザリ キンリー ウエス シェリフ アンソ チェロ さらくやし ピーエル ギング モノキ トリポ ラップカ ハイデ 枸橘 高麗人参 リベラル ワイル ブレーキ ちょうせき トレーダー カモミー アージュ リム いっきく おのえ フィナーレ ゴニウム ノギス ソフト スポイル マベパール ラクトース きわの マフィン ングイン

ドストエフスキーの研究の歴史の中で、特に重要な研究者は以下の通りである。バフチン、江川以外は古書でしか購入できない。

ミハイル・バフチン - バフチンはポリフォニー論やカーニバル論によって、ドストエフスキー研究の新たな境地を拓いた。バフチンの論は半ば一般論化している。邦訳はちくま学芸文庫版が購入しやすい。
アンドレ・ジイド - ジイドは『地下室の手記』がドストエフスキー文学を解く鍵であるとした。ジイドの論文「ドストエフスキー」は数ある評論の中でも特に有名である。新潮社版全集で寺田透訳がある。
レオニード・グロスマン(1888年 - 1965年) - ドストエフスキーの文学が冒険小説的構成をとっていることなどを指摘した。
『ドストエフスキイ』(北垣信行訳、筑摩書房、1966年、1978年)  
『ドストエフスキー全集・別巻』(新潮社版、1980年) - 年譜、伝記、日付と資料 年代記的伝記
『ドストエフスキーの一日』(原卓也訳、講談社、1981年)は小説 
江川卓 - 江川はドストエフスキーの言語のダブルミーニングなどについて、研究を行った。
『謎解き罪と罰』『謎解き白痴』ほか 各新潮選書
ヴィクトル・シクロフスキー
『ドストエフスキー論 肯定と否定』(水野忠夫訳、勁草書房)
ニコライ・ベルジャーエフ
『ドストエフスキーの世界観』(斎藤栄治訳、白水社)

著名人への影響等
ドストエフスキーは文学以外の分野の著名人からも、高く評価されてきた作家である。

アルベルト・アインシュタイン「ドストエフスキーは、どんな思想家が与えてくれるものよりも多くのものを私に与えてくれる。ガウスよりも多くのものを与えてくれる」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、『カラマーゾフの兄弟』を50回以上も熟読したとされている(第一次世界大戦従軍時の数少ない私物の一つが『カラマーゾフの兄弟』だったため)。
ジークムント・フロイトは、論文「ドストエフスキーと父親殺し」において、ドストエフスキーの小説や登場人物について研究している(フロイトが論文の表題に作家の名前を冠したことは、極めて異例なことだった)。
グスタフ・マーラーは、妻アルマによれば、マーラーはドストエフスキーの信奉者であり、つねづね「この地上に誰か一人でも苦しんでいる者がある限り、どうしてわれわれは幸せになれようか」と言っていた。
黒澤明「ドストエフスキーは若い頃から熱心に読んでいて、どうしても一度は映画化をやりたかった。もちろん僕などドストエフスキーとはケタが違うけど、作家として一番好きなのはドストエフスキーですね」(黒澤監督は『白痴』を、人物と場所の設定を日本にした上で映画化している)
江戸川乱歩は、ドストエフスキーの作品を繰り返し読み、「スリルの事」というドストエフスキーの作品に関するエッセイも書いている。また、乱歩の『心理試験』の設定は『罪と罰』から借りたものである。
手塚治虫は、ドストエフスキーの影響を非常に受けた漫画家である。「ボクの長編の基本は『罪と罰』なんです」と公言していた。